あとがき

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「詩の形、詩のこころ」あとがき

 
 
 

 漢詩を素に歌を作っているとよく分かる。自分の思いや考えを言葉で表現するのでなく、言葉の中に既に存在するこころが即ち歌なのだ、と。

 まず、漢詩にうたのこころがある。その漢詩を素に歌を作った時、その歌のこころとは何か。漢詩から引き離すと関係なくみえるが、関係ないのか。「漢詩」でなく一般に、ある対象を歌にして、歌のこころとは何か、と考えた時、自分が自分の言葉で自分の歌にする、と果たして言いきれるのか。自分の思いだと思っていたものが本当に自分のものか。

 ことばはそれを使う全ての人のもので特定の人のものではない。まして個人のものではない。ある思いを言葉にするとき、思いより先に言葉自体が存在している。漢詩のこころ、歌のこころ、それらを詠んだ人のこころ、また、それらを読む人のこころ、それらに多少の差はあっても同じであれば、たとえ、文字や言葉は違っても、こころは既にことばに宿っている。長い長い時間の中で人が言葉にこころをこめたのだ。だから、自分の思いや考えを言葉で表現するのでなく、言葉の中に既に存在するこころが即ち歌なではないかと、思える。そして、こころを宿すことばを分かり易くするための器が詩形だ、と。

 長い時間の中で人が言葉にこころをこめたが、使われる限りことばは変化する。その変化の中に普遍的なものをみるのが歌ではないか。そして、今まで気付かなかった普遍性が見出されてゆく。詠み継がれるとはそういうことであろう。

 こころに形はないが、ことばには形がある。文字にすると、はっきりする。形あることばでこころを表すのが詩歌だ。自由詩の場合、形に制約はないが、逆に、形も作らなければならないという難しさがある。定型故、俳句や短歌では詩形そのものに個性はないので、形にとらわれることなく読むことができ、誰でも読み手が詠み手になることもできる。

 ことばが文字として書かれ、耳で聞くことより目で読むこと、「情」より「知」に比重がある場合、メロディー的要素よりリズム的要素が強い。

 短歌の形は音楽でいうメロディでなく、リズムにあたるが、五七五七七という形はあまりに決まり過ぎていてリズムに乗る前に終ってしまう。唄うということからみれば、五七五七七より都都逸の七七七五の方が向いている。

 ことばにはメロディー的要素がある。俳句は短か過ぎるが、短歌の場合は、音楽としてメロディーをつけることができる。与謝野晶子の歌のことばの中にどんなメロディーを見出すことができるかやってみたくなった。

 さて、五七五七七や五七五の詩形だが、まず、作り方が違う、思考回路が違うように思う。そのあたりから少しずつ考えてゆきたい。しかし、何だか理屈っぽい。小理屈なしでもっと気楽に作れないと思う。

 俳句や歌を作るとき、その形に纏めようとする。こころには形がないので、どのようにもおさめられると言っていい。また、おさめられるものと、おさめきれないものがあるのは当然という前提に立てば、おさめられるものをおさめればよい。

 素描など、簡単な線でうまく表現している絵がある。また、文章では、行間を読むなどという。書いたことだけでなく、書かれなかったことをも読み取るということだが、俳句や歌にはそれがある。文化の厚みとして歌では既に詠まれた歌、俳句では地名や季語が共有化され、定形故に生じた約束事であろう。反面、約束事のため駄句の山累々となる。都都逸の自由さ俗さが面白く新鮮に映る。

 

    うたはこころよ

    こころのうたは

    こころのままに

    よめばよい

 
ニ00ニ年、初春